名前? まるた”と言います。ネームの由来は、会社の書類のサインに、「タ」に〇を書くことから付けました。本名は勘弁してください。
年は? 昭和3×年生まれの3×歳です。もう中年だ。最近左膝を痛めました。持病なので治らへんな。
住んでる所は? 三重県の志摩郡大王町です。海のきれいな所です。ウチから10分でむちゃキレイな海岸があり、散歩コースにしてます。
性格は? 一言で言えば「気が強くて気が小さい」です。人の言うこと全然聞きません。自分勝手。世の中舐めてるところあり。
登山以外の趣味は? まずはバイクです。HONDAのAX−1に乗ってます。買ってから11年目ですが、エンジンは調子いい。昔はツーリング旅行によく行きましたが、最近は通勤にしか使ってません。
他には MTBで野山を駆け巡るのも好きです。時々担いで山に登ってます。モノはスペシャライズのロックホッパーA1COMP−FSです。簡単な整備なら自分でしちゃいます。でも新しいの欲しい。
まだまだ スキーとスノボによく行ってます。最近はお金が無いので、エッジが錆びまくってます。パワーボーダーです。
も一つ 旅行によく行くのですが、お金が無いのでほとんどキャンプです。スキーの時も、スキー場の駐車場にテント張って、泊り込んでます。
さらに ジョギングと筋トレに凝ってます。ジョギングは近場の野山を駆け巡ってます。ほとんどクロスカントリーです。大王町の獣道はほとんど制覇したぞー!(自慢にならへんわな、こんなこと)
おまけ スポーツ以外は読書が好きで、活字中毒者です。お金が無いので阿児町の図書館を利用してます。いつも限度枠いっぱい借りてる。早く読まんとなあ。乱読でジャンルは問いません。専門分野は日本の近代文学、特に無頼派が好きですね。あとはアメリカの70年以降のネオ・ハードボイルド、80年以降の日本の冒険小説。大学では文学部で、サークルはミステリ研究会でした。
今まで何してた? 昨年(2001年)の11月に三重県の伊勢志摩に帰ってきました。それまでは名古屋に住んでました。
伊勢志摩は親父とお袋の田舎です。私自身も親の仕事で中学入るまでの7年間、この地で暮らしてました。その後は中学高校と大阪の守口に住んでました。
大学は京都の立命館というところで、産業社会学部を卒業した後、文学の勉強がしたくて再度文学部に入りました。親は「そんな役にも立たんとこ入るなんて。早よ就職しいや」と嘆いてました。実際社会に出てから役に立たへんかったなあ。
卒業してブラブラしてたんだけど、「これではいかん!人間のクズになる!」と思い、関西の某スポーツ用品販売会社Kに就職し、毎日登山用品・スキー用品を売ってました。希望して東海地方勤務にしてもらった。
そこには6年間勤めたが、会社が倒産寸前になり、東海地方から全面撤退。地元採用の100人は本社のある関西に呼ばれる事になったので、東海地方の大型店舗販売店に転職。しかしこの転職は失敗だった。会社のあまりにも無茶な経営方針に付いていけなくなり今年退社しました。今は仕事探し中です。なんだか寄り道ばっかりの人生だな。


 とここまで書いてみたが、こんな内容では読んでる人間も面白くない! こんだけじゃ”まるた”ってどんな人間かわからへんわなあ(知りたくないって!そんな事言わんように)。でだらだらと今までの人生を振り返って、いろんなエピソードを書いていきます。

 えーと最初はガキの頃のエピソードを細切れエッセイ風に書いていきます。題して「想い出は美しすぎて」
●ワイが小学1年の時やった。友達が「手乗り文鳥おるでー、飼ってんねん」ってので、仲間数人と学校帰りに見に行った。文鳥の名前はぴー子ちゃん。指先から餌をついばんでくれる。みんなの肩から頭へと飛び回っとる。「可愛いなあ」「ぴー子ちゃん」とワイワイガヤガヤ。
そこにオバチャンが「あんたらぴー子ちゃんいじめたらいかんよ」と言いながら、お菓子持って来た。部屋に入ってきたオバチャンの足の下にはぴー子ちゃんが・・・合唱。
●ワイが小学2年の時、学校ではヤギを1頭飼ってて、なんとワイが飼育委員になった。飼育委員は何人か居るけど、人気があるのがヤギの係りで、人気が無いのがおたまじゃくしだった。ワイは嬉しくて嬉しくて張り切ってた。で「ヤギは紙を食う」という事を信じてたので(アホだ)、「おいしい紙を食べさせてあげよう」と思い、新聞の折り込み広告のカラーチラシを食べさせた。当時は大抵が白黒チラシでカラーの広告チラシは大変珍しく、カラーは高級そうなのでおいしいだろうと思い込んでた。
翌朝ヤギは痙攣起こして、緊急手術で腹を切り開かれました。すまんヤギさん。
●ワイが小学3年生の頃、冬のある日学校の用水池が凍ってた。みんなでワイワイ割って投げつけて遊んどった。そこの池は、夏なんか臭っさいにおいがぷんぷんして、金魚なんか放そうなら2〜3日でプカプカ浮かんでくる汚い池。
「マス大山の正拳突きだ!」と叫んで割る奴、背中に氷入れて悪戯する奴、氷に乗ろうとしてはまり、全身ずぶ濡れになる奴、中には氷を食べる奴も2〜3人いた。
「うわー!汚ったなあ!何食ってんねん!病気になるぞー!」
「汚なないもん、うまいでー!」
「嘘っそやあ!金魚死んどったぞ!」
と言ったら、そいつら校舎の裏に行きよった。後を附けて行くと、洗い場の水道で氷洗って食っとった。こいつらアホや。
●ワイが小学校6年生の頃、友達と大阪京橋のダイエーで遊んでた時の事やった。「鬼ごっこをしよう」って事になり、何回か鬼と逃げる役を交代した後、ワイが逃げる役になった。30分ぐらいトイレに隠れてマンガ読んでて、「もういいやろ、あいつに捕まってやるか」と外に出た。ダイエーの館内を探したら、いたいた、キョロキョロしてワイを捜しとる。よーし悪戯したれとばかりに、後ろからそーっと近づいたった。真後ろに立ち、肩に手を置いて人差し指を突き出した。相手が振り向いたら指が頬に当たるという悪戯。でもそいつが振り向いた途端、指はそいつの鼻の穴にズボッ!「うっひゃー!」ってよく見たら、そいつはよく似てるけど友達ではなく、全然知らないオジサンだった。しかも指先には鼻くそが。
ワイもビックリ、オジサンもビックリ、飛んで走って逃げた。しばらく逃げてほっとしてると、向こうから正真正銘の友達が・・・。「おい!何処におってん!」「すまんすまん、ワイも捜しとったんや」と近づき、肩を叩く振りして指先の鼻くそをなすり付けたった。めでたしめでたし。
●ワイが高校1年の事やった。その年神戸のポートピアアイランドに新しい遊園地が出来た。で開園3日後、早速友達と学校サボって遊びに行った。9時開園なのに8時30分ごろには黒山の人だかり。2千人ぐらいゲートの前で待っていた。
9時5分前にゲートの上の案内台に、制服着たおねーちゃんが立った。「みなさま、ポートピアへようこそ」
途端お客の罵声が飛ぶ。「はよ開けろ!」「何しとんじゃぼけ!」「待たすな!」
ねーちゃんに空き缶投げる奴、ゲートの扉にキックかます奴、ゲートを施錠してあるチェーンを切る奴、係員に詰め寄る奴・・・おねーちゃんはジュースまみれですごすご引き揚げた。
予定より3分早くゲートが開けられた。各馬一斉にスタート。走る走る皆どんどん走る。おじさんも走る、おばさんも走る、カップルも走る。子供も走る・・・数百人が一斉にある方向に向かって走った。目玉のジェットコースターに向かってだ。初日2日目はジェットコースターは3時間待ちだったらしい。早く行かないと乗れなくなる!友達はすぐ横を走ってた。よし一緒に乗れるな、なんて思ってた。
ところが前の3歳ぐらいの子供がこけて、そのお母さんも足取られて一緒にこけた。その後ろを走ってたねーちゃんとにーちゃんがその上に折り重なってこける。またその後ろの人も折り重なってこけ・・・「ぎゃあ!」「痛い!」「ぐえっ!」「ボキ!」と阿鼻叫喚。何しろ数百人が全力疾走してるんだから、あちこちでこけまくり悲鳴が上がってた。ワイも前でこけた女子大生の後頭部を踏みつけて、何とかこけずに到着、なんと6番目だった。
「ああ良かった、こけへんかったし時間待ちなしでコースターに乗れるわ」と思って友達を探したら・・・ワイの10人ぐらい後ろで、頭から血を流して立ってた。Tシャツ血でまっ赤っか。
ポートピアの恐怖でしたー。

 上の表には書いてへんけど、私は高校時代から格闘技が大好きで大好きで、格闘技オタクです。高校に入ってからは、将来プロレスラーになるために柔道部に入った。毎日毎日体育館の道場で柔道ならぬプロレスごっこしてました。ちなみに得意技はブレーンバスターです。今はもう出来へんやろなあ。身長は今と変わらず180センチあったけど、全然体重が無かった。たったの65キロだよ。普通私ぐらい身長があると皆体重の方は100キロある。だから他校と試合なんかあると、バンバン投げ飛ばされてた。背はあるので奥襟は掴めるんだよ。でもね体重が無いから振り回されて懐入られて、腰に乗せられ梃子の要領で一回転。で畳に叩きつけられて終わり。ああなんて弱かったんだ。そんな調子だから、だんだん寝技閉め技を得意とするようになってきた。今でも腕がらみは得意です。この時プロレスラーを目指す事に挫折しました。なんせ公式戦8勝25敗だったからなあ。
 柔道やってて良かったのは、喧嘩に強くなった事。住んでたのが大阪の守口という下町でガラが悪く、高校生同士の恐喝・暴力事件等は日常茶飯事だった。だから自己防衛しなくちゃいけない。柔道やってて負けなくなったなあ。私の喧嘩の方法はむちゃ汚くて、絡まれたら「ごめんごめん」と誤りながら相手に近づいて抱きつき、地面に倒して寝技に持ち込む。ですぐに相手の目に指を突っ込む。目が一時的に見えなくなったとこを石や棒でボコボコにしてた。実に汚いやり方だ(笑)。友達も「汚ねー!」って言ってたな。対柔道家相手に組んじゃいけません、必ず負ける。勝つにはアウトレンジからの打撃が有効です。でも高校生で打撃系の格闘技やってる奴っていないもんね。
 時々近所の守口警察署に出稽古に行くんですよ。お巡りさんに稽古つけてもらう。お巡りさんてねー、それまではあんまり好きじゃなかったんだよ。でも練習が終わってからよくご飯おごってもらった。それからは好きになりました。なんて現金な奴だ。練習が終わってお巡りさんらと近くの王将にご飯食べに行くんだよ。その時「兄ちゃん飲め」とビール突き出される。私は「ばれたらやばいですよー」と言いつつ2,3本は空けてた。お巡りさんと仲良くなってると得するよ。私は他校の生徒と喧嘩で2回補導された事があるけど、その2回ともお巡りさんが「なんじゃあ、いつも道場に来とるガキやないか」と言い、無罪放免してくれた。喧嘩の相手は「大人しい高校生に絡んで喧嘩を吹っかけた」と罪を着せられ、親呼ばれてた。逆なのにねえ(笑)。
 格闘技やってて勉強になった事といえば、「人を見かけで判断しなくなった」ことでしょうね。警察の道場には一般の市民の人もよく練習に来てて、その中で風采の上がらない40近いおじさんがいたんですよ。よく飯を奢って貰ったんだけどね。身長が160くらいしかなくてひょろひょろでねー、誰にでも負けそうな(笑)。でも乱取りになるとむちゃむちゃ強い!何回極められたか。よく落とされたなあ。TAPする暇も無かったもん。毎回ボロ雑巾のように扱われてた。世の中見かけによらない、強い奴がゴロゴロいるもんだな。これ以降は簡単に喧嘩出来なくなりました。
 高校の時は毎日柔道に明け暮れてました。この時はもう活字中毒者で暇な時は文庫本ばかり読んでた。中学の時はSFしか読まなかったんだけど、高校に入ってからはSFから歴史小説・時代小説、そして経済小説と、ジャンルフリーになっていました。柔道部の他に文芸部に入って、下手糞な独りよがりの詩とか書いてました(今思い出しても・・・うぎゃあ恥ずかしい、よくもあんな歯の浮くような事書いてたな。友達に言わすと「若い頃バンドやってて、下手なメッセージソング歌ってた・・・うぎゃあ、恥ずかしい!」との事。皆さんの若い頃の恥ずかしい事って何ですか?)。しかし柔道部と文芸部の掛け持ちって俺だけだったな。

 全然勉強しなかったので大学は全滅。1年浪人して立命の産業社会学部に入学。高校時代から政治・経済関係のオピニオン雑誌なんかに興味があって(なんちゅうませたガキだ。ただのええカッコしいという意見もあり)、社会科学関係に進みたかったんだけど、法学部経済学部では専門性が強すぎる、広く浅くの社会学部がいい、とまあ考えて立命の産業社会学部を受験しましたー!ってのは半分うそー!確かに何でも屋の社会学に興味があったことは事実なんだけど、実際他の学部は全滅で(笑)、一番偏差値の低い産業社会学部にかろうじて引っかかった、というのが本当です。
 専攻は現代文化論とマックス・ウェーバー。特にマックス・ウェーバーは大塚久雄さんの本や論文を、嘗め回すように読んでました。初めて読んだ時は衝撃的でしたよー!それまでは産業革命は蒸気機関が作ったものだと思ってたのに、実はキリスト教のプロテスタントが作ったものだなんてねえ。世の中の政治・経済・文化・宗教というものは、全て密接にくっ付いてるもんだと知りました。これがきっかけで、卒論は反抗文化(カウンター・カルチャー)と国民経済の繋がりをテーマにしたのですが・・・これは見事に失敗しました。ゼミの教授にも「何書いてるのかわからん」と呆れられ、教授とよく飲みに行ったという愛想の良さで、パスさせてもらったようなもんです。
 サークルはSF研究会という所に、友達に誘われて入りました。でも大学時代SFは全然読まなかったよ。中学時代はSFしか読まなくて、いわゆる日本人作家の第一世代と呼ばれる、小松左京・筒井康隆・半村良・・・etcが好きだった。第二世代の田中光二・山田正紀・・・etcも好きだったよ。しかし70年代から出始め、80年代にポップカルチャーSFを書く、第三世代と呼ばれる新井素子、大原まり子・・・etcは全然好きになれなかった。なんかちまちましてテーマが無くて、それで高校時代はSFから離れてしまった。SF研究会なのにSF全然読んでなかったなあ。SF研に入ってビックリしたのが、本を全然読んでいない奴がゴロゴロいた事。なんでそういう奴がいたかと言えば、アニメや特撮が好きでSF研に入ったらしい。アニメ派・特撮派がほとんどで、活字派は少数だった。でその少数の活字派の先輩もSF全然読まなくなって、冒険小説ばかり読んでました。私も冒険小説にのめり込んで、掛け持ちしてた先輩に誘われてミステリ研究会に入ってしまった。私は元々体育会系だったんだけど、オタクが多いSF研は体質が合わず最後にはほとんど行かなくなりました。逆にミステリ研究会の方にのめり込んでた。
 活動内容は雑誌の製作と、作家の講演会やインタビューを行う事がほとんどです。SF研というのは大抵の4年生大学にはあるんだけど、ミステリ研は全国でも20大学にしかない。しかも日本SF作家クラブが40人しかいないのに、日本推理作家協会には1000人いる!で大抵の作家はインタビューの申し込みに無償でOKしてくれました。SF作家だったらこうはいかないですよ。
 大学時代に一番よく読んだのは坂口安吾と太宰治で、無頼派つまり破滅型作家に入れ込んでしまいました。70年以降のアメリカのネオ・ハードボイルドの、ジェイムス・クラムリーやローレンス・ブロック、マイケル・Z・リューインも好きでしたね。アメリカの無頼派と呼んでました。ここらへんの作家は麻薬ですね。読むと酒飲んで野垂れ死にしたくなっちゃう。この時期に自分の人生観・価値観が確立し始めた気がします。ここらへんの作家を読み始めてから、「俺は野良犬だ!転がる石のようにローリング・ストーンだ!」なんて叫んで(笑)、それまで溜めてた本をほとんど売っ払ってしまいました。5000冊あった本が「男は身一つで生きるべきなんだ!」って言って1/10減らした。かっこつけて飲めない酒をガンガン飲んで胃を壊して・・・太田胃酸買って飲んでました(まぬけだ)。今考えたら恥ずかしい。ばか者です。
一番好きな小説は、「堕落論」 坂口安吾 角川・講談社文庫
             「人間失格」 太宰治 集英社文庫
             「酔いどれの誇り」 ジェイムス・クラムリー 早川ミステリ文庫 
             「八百万の死にざま」 ローレンス・ブロック 早川ミステリ文庫
とまあ破滅小説ばかりです。坂口安吾と太宰治は知ってる方多いでしょう。「八百万の死にざま」は、エンターテイメント作家ブロックの唯一の文学作品で、しかもそれがとんでもない傑作!友人のH井や、「C」の常連のお客さんのA藤さんも「これは傑作だ!」と言ってました。
 クラムリーは「酔いどれの誇り」以外も全部傑作です。この人はバーテン、トラックの運ちゃん、大学の講師と職業を転々として、時には高速道路の下でレゲエのおじさんもしてたという、人生破滅実践作家です。小説に出てくる人物全てが酒飲みで酔っ払いでヤク中でだらしなくて・・・人間クズ小説。浅田次郎も真っ青!どうやら自分には破滅願望があるみたいです、実践は出来ないけど(笑)。で本格的に無頼派の研究がしたくて、産業社会学部卒業と同時に文学部を再入学しました。
 文学部では好きな無頼派の研究などしていて楽しかったんだけど、2年目に親父が爆弾みたいな借金を残して死んでしまった。これには参ったよー!親父はホテルとレストランを経営してたんだけど、死ぬ1年前から業績が悪くて、とうとう心労が重なって死んでしまった。やい!おやじ!どうせ死ぬなら借金も一緒に持っててくれい。銀行と話し合ってなんとか買い手を捜したんだけど、会社は倒産寸前で誰も見向きもしやしない。ところがその頃からバブルで土地の値段が急に上がり始めて、会社・借金・土地・建物全て込みで、引き取ってくれた奇特な人がいた!渡りに船とばかり全てを押し付けハイ、さようなら。あれから13年、土地は暴落し・・・。結局半年大学には行かなかったので、1年留年しました。
 しかし銀行っていいかげんだねー。平気で言う事ころころ変わるもん。銀行以外にも支払い等を巡って、お金の争いが会社・親戚のあちこちで発生して、エライ目にあったよ。人間ってのは金が絡むと変わるもんだな。やい〇五銀行、いい加減な事すんな!この時は半分ノイローゼみたいになってしまって、周りのみんなに心配をかけてしまった。借金は1億5千万あったんだけど、その中の1億4千万は〇五銀行の分。他の1千万は出入りの業者さんの支払い分なので、生命保険4700万の内、1千万をそれに当てた。ウチの親父手形切ってなくて良かった。残るは1億。これの処理が大変だった。
 実はホテルを始めた際、親戚の土地を借りて(借金の担保にして)商売を始めたんだけど、それが他の親戚の気に食わなかったらしい。土地を返せ云々と、横槍が入りまくりで、会社を譲渡する交渉がメチャメチャ揉めた。最後には親族一同が集まって、必要な土地だけ会社に貰って、後は返却する事になりました。弁護士が出てきたり、いつの間にか親戚同士で養子縁組が進んでたり、知らない所で土地の名義が変わってたり・・・この時から「性悪説」を信じるようになった。人間10人いたら欲に動かされないのはせいぜい2〜3人だなあ。欲に動かされなくても、自分の立場を守るために平気で人を騙したりする。私の尊敬する梶原一騎大先生の「人間の本性、これ悪なり」という言葉を、この時ほど身に染みて思った事はありませんでした。誤解をしては欲しくないのですが、私もまた「欲で転ぶ」人間です。決して自分を棚に上げて言ってるわけではありません。なるべくそういうのから脱却したいのですが・・・まあ無理でしょう。
 ノイローゼになっちゃったので、しばらくは大学に通ってのんびりしてた。勉強したりサークル行ったりするのが、何よりのリハビリだった。この借金爆弾の処理と人間不信で、人生観がいびつになってしまって(しかも破滅型作家が好きときたもんだ)、「これからは(誰にも迷惑をかけずに)好きに生きていこう」と思い、この時から私の思想遍歴が始まった。そんな大したもんや無いけど、片っ端から哲学書・人文書・を読みまくっていった。その当時から流行り始めた「エコ思想」「ニューエイジ思想」も興味があったんだけど、それに拒否反応を示したのは、大好きだった冒険小説・ハードボイルドそして無頼派文学の影響です。「群れるのはヤダ!」「洗脳はヤダ!」「野垂れ死にOK!」「プラス思考なんてヤダ!」「俺は一匹オオカミだ(笑)」とこの当時から嫌がってました。今考えたら大笑いです。なんてひねた青年だ。
 会社の処理がぜーんぶ終わったら手元には当座の生活費だけがちょろっと残っただけ。これ以降1年半は学費を稼ぐのに、ひたすらバイトした。幸い友達が週3日間月収18万のバイトを紹介してくれたので、なんとか学費も稼げて勉強も出来て下宿代も稼げて無事卒業できた。このバイト先の社長には今でも感謝してます。
 この1年半はむちゃきつかったー!月火水と朝7時に家を出て、バイトして帰るのが深夜の1時。木金土と朝一から講義を入れてるので7時家出、夜6時授業終了9時まで図書館で研究論文の勉強、家に着くのが夜11時半。日曜日はサークル活動または登山に行ってた。休む暇無かったなあ。一日の睡眠時間は4時間あるかないか。でも全て好きな事ばかりなので、楽しかったです。就職活動なんかする暇無かったので、大学の就職科から呼び出しがよくかかってました。
 登山はこの頃バイトを紹介してくれた友達に誘われて、伊吹山に行ったのが最初。でこれが病みつきになった。これ以降はキャンプ・登山にのめり込む一方だった。友達の影響でバイクの免許を取ったのもこの頃です。後輩にH本、M次というのがいて、こいつらにさかんにバイクの良さを洗脳されて(笑)。
 バイト紹介してくれて、俺の一生の趣味、登山とバイクを教えてくれたその友人H井くん、君には大変感謝してるよ。この間学生時代の手帳見つけたら、君に貸したお金1万2千円まだ返ってきてへん事がわかったけど、帳消しにしてやらあ。
 私生活では頭ド金髪に染めて、ヘビメタ(懐かしい)やってました。いつも薄手のコート着て鎖ジャラジャラ垂らしてました。あそうそう、山にも金髪で行ってました(さすがに鎖は持ってかなかったけど)。山で会った登山者はビックリしてた。「こんにちはー!」って挨拶したら、相手は「こんに・・・ち・・・・・・は」と固まってた。まるで熊にでも出会ったような目で見られた(笑)。高槻のぽんぽん山に一人で行った時、会ったおばちゃんに「どこの国の人ですか?」と聞かれた事があった。10年以上前なので、髪の毛染めてる人はほとんどいなかった。電車でも横に誰も座らなかったなあ。俺ってそんなに人相悪いのかなあ。(嫁さんに言わせると、むちゃむちゃ気が強そうな顔してるらしい)

 卒業したけど最初は就職する気が全然無かった。なんか縛られんのがイヤだったし、野垂れ死に願望が強かったから。下宿の向かいが滋賀銀行の寮だったんだけど、朝6時出勤、夜12時帰宅が毎日続いてるのが、目の前でやってるんですよ。皆どぶねずみ色スーツ着て目が死んでる・・・。ゾンビだと思ったよ。俺にはこんな事出来へんなあ。サラリーマンになるのやめよ。学生時代忙しかったけど、あれは好きな事やってたから楽しかった。でも目の前のこれは違う。みんな命削ってるぞー。
 「俺は自由なんだ!俺は好きな生き方してやる!」なーんて叫んで、あの頃から言われ始めた”フリーター”ってのを一生やってくつもりだったんだけど、根が小心者なので1ヶ月で不安になり(笑)、「いかん!このままでは人間のクズになる」と思い急遽就職活動を始めた。あの俺の決心はいったい何だったんだ(笑)。たったの1ヶ月しかもたなかったよ。でたまたま京都河原町にある今は無き某書店で、雑誌「山と渓谷」を読んでたら、「社員募集」の広告が目に入ったので、神戸に本社を置く登山・スキー・スポーツ用品販売のKという会社に就職した。たった2ヶ月のフリーター生活でした。
 最初の勤務地は愛知県の安城店で1年勤め、次は碧南店で1年、次は江南店で店長になりました。仕事は面白かったです。お客も常連が多かったので、みんな仲良しになって一緒にスキーなんかに行ったりしてた。碧南の1年と江南の1年目の計2年が仕事きつかったですね。碧南は人員1名欠で毎日夜12時まで残業してて、休みもあんまり取れへんかった。江南は店長1年目で気が抜けなかったです。でもそれ以降は仕事にも馴れ、しかも店もバブル崩壊で売上が上がらず、暇で暇で毎日1冊文庫本読んでました(笑)。
 江南店は辞めるまで4年間居たんだけど、お客が常連化してしまって、閉店間際にみんな店に集まってくるようになった。毎日誰かがおつまみとビール持ってくんだよな。で1時間ばかり酒盛りしてた。時々忙しい時、トイレ掃除もやってもらってた(笑)。みんないい奴ばかりでね、嫌がらないんだよ。時々「トイレ掃除やってー」て言うと、「えー!」なんて言う奴がいる。そんな時は「次から出入り禁止!」なんて言うとあわててやってくれた(笑)。
 お客とスキーにもよく行った。シーズンになるといかにも「初めてです」という雰囲気を、ばしばし出してる社会人らしい兄ちゃんが来る。たぶん会社でみんなスキーをしてるので、片身が狭いんだろうな。よく誘われてるけど「いや、やったことないんで」といつも断ってるんだろう。スキー用品なんてはじめて来てすぐ買う奴なんていなくて、2,3回足運んで「えいや!」って清水の舞台から飛び降りるつもりで買う人が多い。何度か説明してるうちに仲良くなって、「今度スキーに行かへん?ウチの従業員とお客さんたちなんだけど、初心者が多くてねー。君も来えへんか」と誘う。すると「いいんですかー!僕この前初めて会社の連中に連れて行ってもらったばかりなんですよー」「いいよ俺が教えるよ。女の子も何人か来るんだよ。女の子らは運転出来んから、車出してくれへんかなあ」「僕のでよければ出します!」ときたもんだ。一番しんどい運転をぜーんぶやってくれる。女の子連中も俺もグースカ寝てるのに(笑)。でガソリン代高速代も「いいですいりませんよ」なんて言ってくれるお客もいる。いやー、みんな良い客ばかりだー!(笑)。
 登山の技術はここで本格的に覚えました。会社が山屋・スキー屋の集団なので、休みはほぼ100%山やスキー・バイクツーリングに行ってましたね。1年間に30日スキー、50日テント泊って年もありましたね。さすがに嫁さんに怒られました。冬山はかなりやってたのですが、クライミングは怖いのでやめました。友人でロック・クライミングの途中転落して、腰から下がぐしゃぐしゃになって・・・今でも寝たきりです。言葉も上手く喋れません。その彼の姿見てると、「やっぱり親や嫁さんを悲しませたらあかんな、死ぬような事したらあかん」と思いました。結婚してからは冬山も(低山以外は)やめましたし、バイクも雨の日は乗らないようにしてます。今まで遭難もせず事故りもせず生きてきたのは、こういう自分の気の小ささがあったからでしょう(笑)。
 関西から東海地方に来てビックリした事は、喋ってる言葉が全然違う(当たり前だ)!それまで関西から出た事が無かったので、これはカルチャーショックでした。安城の店でお年寄りのお客さんが来て、万札を差し出して、「両替一万円だら〜!」と言われた。俺は「一万円をドルに替えてくれ」と思い込んで(笑)、「すんません、銀行は向かいです」と言ってました。「だら〜」と言葉の語尾に付けるのは、三河の方言だそうです。ちなみに私の田舎の三重県は関西なまりです。三河に来てわたしゃ初めて国際社会に出た気分になったよ(笑)。同じ愛知県でも三河と尾張では全然言葉が違いますね。三河は「だら〜」なのに、尾張は「にゃ〜」でした。イントネーションも全然違う。京都弁と大阪弁って使う言葉は違っても、イントネーションはほぼ同じじゃないですか。でも愛知県は同じ県でも全然違いました。尾張の人に聞いたら、「三河は尾張の植民地」だそうです(笑)。
 そんな楽しい生活をしてたんだけど、なんと!会社が倒産寸前になり、関東東海から全面撤退が決定、東海地方の地元採用組は100人ほどいたけど、いづれは本社のある関西に呼び戻される雰囲気になった。で「話が違うだろー!」で転職しました。そのKという会社はその後、釣り具販売のJ州屋に買収され、160店舗の店は現在50店舗、株価は50円前後で時々額面割ってます。友人の店長で「会社から自社株を500万円分買わされて、今は15万円にしかならへん」とぼやいてたのがいた。公開前に社員に買わせてってのはわかるけど、公開後に圧力かけて買わせるってのは詐欺だね。私はしょっちゅう逃げ回って、結局買いませんでした。ああ良かった。
 経営者が結構いい加減で、「いづれはヤバイな」と思ってた。客を無視した経営方針は凄かったです。新しくマウンテンバイクを扱う事になったのはいいけど、販売する店員が誰も組み立てた事が無い!そんなところへ部品のまま送ってきて、「さあ組み立てて販売しろ」と言う。組み立ての研修は本社の会議の後に2時間、店長連中が見よう見まねの講習を受けただけ。たった2時間でマスター出来るわけないやろうが。送ってきた工具はニッパと携帯ツール(!)のみ。あのなあ携帯ツールってツーリング時の物なんだぞ。こんなんでどうやって組み立てんねん。仕方が無いので自腹切って自転車屋で工具買ってきました。こんな店員が組み立てたMTBを、何も知らない客は買っていったんだよ。よく事故が起こらなかったなあ。会議の最中に常務が「皆さん気をつけて整備してくださいねー!何かあったら皆さんの責任になるんですよ!」って言って、店長連中はカンカンに怒ってたな。「最終的には会社がケツ持ってくれるんじゃないのかよ!何かあったらトカゲの尻尾切りか!ぜーんぶ現場に押し付けやがって!」って。こんな例はいっぱいあります。現在は経営者が変わって大分ましになったようです。
 店長連中が集まってよく飲んでたけど、皆公然と転職の話をしてたなあ。「俺今度面接受けるねん」とか。中には店のカウンターにB−ingを置いて読んでた強者もいたな(笑)。常連の客が来てそれ見てビックリしてた。
 スポーツ販売業界は、ビクトリア・オリンピック・ミナミスポーツ・Kと7強と呼ばれた大型店の半分が倒産もしくは業務縮小で、残るはアルペン・ヒマラヤ・ゼビオぐらいでしょう。カテゴリーキラーとしてのアルペン・ヒマラヤに対抗出来る所って無いでしょうね。

 でKに見切りをつけ、東海地方の「C」という本屋に転職した。岐阜と尾張に4店舗あり、いずれも200から500坪の大型店舗で、郊外店とは思えないほどの品揃えだった。毎年マイナス成長の業界の中では、異色の急成長を遂げて、業界でも注目の会社だった。社員も皆大人しくて素直で、表面上経営陣も気さくないい人で、とっても雰囲気のいい会社だった。こりゃあ働きやすいなあ、なんて思ってた。でもね、唯一の欠点が、とにかく仕事の量が多くて多くて、残業当たり前、徹夜当たり前、休日出勤当たり前の会社だった事。これには参ったよ。残業は少ない月で100時間、多い月で242時間てのがあった。これに正規の勤務時間月176時間が加わる・・・242+176=418時間、げえ!まじかよ!月22日勤務で一日平均19時間働いてた計算になる。実際は休みに出勤してる日があるので、17時間ぐらいだ。睡眠時間削りまくってました。それでも家に帰る暇無いので、職場に寝袋持ち込んで寝泊りしてた。登山・キャンプ以外で寝袋使ったのはこれが初めてだ。でも1円も残業代出なかった。
 入社して2年で左目が見えなくなった。原因は過労・ストレス・睡眠不足。マジで死ぬかと思った。
 俺が入社した時の上司で社長の片腕だったMさんは、朝礼の時いきなり泡吹いて倒れて救急車で緊急入院、それ以来会社には来なかった。どうやら腸に穴が開いてたとの事。コミック担当のY江さんは腰をいわしてしまい、3週間自宅で寝たきりになった。そんな彼女を会社は2年後「働きが悪い」といい、当時の店長は「辞めてくれ」と退職勧告を出した(ひえーひどい)。O竹さんは会議で社長の意見によく異議を唱えたら、後日「君ウチには合わない」と退職勧告された。コミック担当のI上さんは、徹夜徹夜が半年続いたのでノイローゼになってしまい、奥さんに付き添われて田舎に帰ってしまった。原因はもちろん過労とストレス。etc、etc・・・まだまだいっぱいある。
 前に暇な時に計算した事があるんだけど、平均在職年数が2.6年と佐川急便並で(給料は佐川の1/3だが)、入社して5年目に残る確立は24%。5年経ったら4人のうち3人は辞めてる。そういや社員数33名で俺入社5年で上から6番目だったもんな。普通の会社なら5年目なんてようやく中堅社員ってとこなのにね、もうすでにベテランだよ(笑)。俺が入社してから19人辞めてるもんな。とにかく入れ替わりが激しい会社だった。
 俺自身「仕事がきついのは仕方がない」と思ってた。ブーブー言ってたけど何しろ不況だし、こんな時代仕事があるだけましだと思ってた。お年寄りの社長が交代して、新しい社長になった途端、個人的にお世話になってた経理の先輩が辞めてった。「俺はこの新しい方針に付いていけん」 この頃から会社が段々宗教っぽくなっていった。でも不思議なのは誰も「そんな状態はおかしい」と言わなかった事。ほとんどの社員が上層部の命令を神様のご神託のように信じており洗脳されてた。俺のようにブーブー言ってる人ってほとんど先に辞めちゃった。確かに仕事は面白かったんだよ。で社長はカリスマ性があったので、一種の宗教団体みたいな所があった。説明するのは難しいけど・・・ピース・ボートってのがあるじゃないですか。あれと同じで皆連帯感が強くて、甘ったるい正義感と気持ち悪い優しさが・・・うへえ気持ち悪い。まるでア〇ウェイみたいな所だったな。上からの指示が段々実際の現場の状況を無視して降りてきたしなあ。
 一番笑ってしまったのが、年一回の社員旅行での会議で、「”C”という会社で働ける事に感謝して欲しい」というふざけた事をぬかして、しかもそれを文章化して全員を洗脳しようとした事だ。ギャグだと思ったよ。残業代も貰わず、体壊すくらい働いてるのは誰なんだよ。感謝してもらいたいのは俺達だ。でも大半の社員が洗脳されてました。こいつらバカだ。
 現に〇井〇研のコンサルティング受けてた。〇井〇研って知ってます?波切日記のページにそこの本を批判してるので、興味のある方はそこを読んでください。要は新霊性運動やニューエイジ思想の流れで、ソフトな洗脳(一体化)による労務管理の新しい手法です。「私たちは素晴らしい事をしてるんだ!」と思わせて、新たに会社への(形を変えた)忠誠を誓わせ組織に奉仕させる形。この管理が出来ると残業代払わなくてもいい(笑)。何しろみんな洗脳されてるから。片方では新たな形で組織への奉仕を強要し、他方では平然と反社会的行動・指示を行う・・・なんて会社にだけ都合のいい経営方法なんだ。この手法を詳しく知りたい方は、「カルト資本主義」 斉藤貴男 文春文庫 667円 を読んでください。〇井幸雄・浅井隆・高木義之・EM・中村天風・天外伺朗・・・etc、「C」のビジネス書コーナーに山積みされてる本の事を、徹底批判してます。
 俺思ったんだけど、宗教にしろ政治にしろ会社にしろ、一つのイデオロギーに狂った人間ってタチ悪いねー!他の考えを持った人間を排除しようとする。「仕事上この考えを守ってください」ってのはわかる。でも彼らの言ってるのは「あなたの思想心情哲学をこの考えに統一(洗脳)してください。でないと会社辞めてもらいます」ってのと同じ。仕事さえきちっとしてれば、どんな考えを持とうがいいじゃねえか!は通用しない。まるで戦前の日本ですな。税金払って法律守って徴兵されて、それだけじゃいけない。愛国心がないといけない、でないと非国民だ。
 自分がなぜ洗脳されなかったかというと、やはり学生時代はまり込んでた無頼派文学の影響でしょうね。完全な「性悪説」だから、安易なユートピア願望は胡散臭く思えるんですよ。「こんな素晴らしい世の中になる(会社になる)、だから協力しろ」と言われても、「ホンマかよー!」と毎回疑う。現に「信じる人は騙される」だしなあ(もしくは本人が気が付いていないだけかも)。私は自分の人生には楽天的なんだけど、社会や他人には(ましてや会社や組織・国家には)徹底的に悲観的なんです。何も期待してません。期待するのは自分と家族・友人だけで十分。なんて事を暇な時バイトのO君とよく議論してました。レジで接客の合間に、「哲学大好き」で27歳で名大に再入学しちゃつた変わり者のO君相手に話し込んでたなあ。波切日記にも書いてるんだけど、「組織と個人」の精神的関係論が、今の私の個人的テーマです。今年はそれ関係の本中心に読もうと思ってます。
 「こりゃあまともに仕事してたら人間腐るぞー」と思ったので、それ以降はなるべく逃げ出す事を考え始めた。途端上層部の受けが悪くなる。「こんな馬鹿げた会社の指示には従えません」とすったもんだがあり、だんだん評判が悪くなっていった。自分で辞めた形ですが、「そんな仕事をさせるとは・・・ひどい会社ですねー」と後日職安の職員の人に言われました。身体を壊す寸前まで働き、大好きな山もほとんど行かず、休みを潰して働いてきたのに・・・この転職は大失敗でした。
 かつて日本的経営が万能だった頃、社員は会社に全人格を捧げていたけれど、それはそれで終身雇用という見返りがあったから。でも現在は違う。リストラの名の下に平然と首切り(退職勧告)がある。もう見返りなど期待できない。とすれば以前よりも会社との距離を置く必要があるんやないかな。会社がドライに首切りするなら、我々もドライに考えた方がいい。極端だけど私は企業なんて必要悪だと思ってる。存在を否定するつもりはないし、企業活動が社会に貢献する事もたまにはあるでしょう。だが企業の目的は利潤の追求・組織の維持のはず。人権・社会正義・モラル・倫理・・・とは平時には敵対しないが、本来の目的の為なら、いざという時には平然と切り捨てる存在だ。この二つが100%合致する事は絶対にありえません。「ありえる」と言ってる経営者やコンサルタントは頭が悪いか詐欺師です。現に「C」では俺一人に対してだけでも、未払い残業代7百万円あるしなあ。これは立派な法律違反・犯罪だぞ。「社会に貢献する」とか「仕事を通して人格・人間性を伸ばす」などと偉そうな事言うんじゃねえよ。
 大体痴漢捕まえた時なんで怒られなきゃいけないんだ。褒めるのが普通だろう。被害者の小学生の両親は、「ありがとうありがとう」と言ってくれたぞ。何が「余計なパート代が掛かる・・・捕まえても金にはならない・・・ぶつくさ」言われなければならないんだ!
 だから我々は過剰な期待や、ましてや企業にアイデンティティを求めるような事はしないほうがいいです。「一体化」なんぞ言語道断!でもみんなアイデンティティや一体化を求めるんだよな。俺には自我の確立を放棄してるとしか思えん。でもカルトや宗教にはまるのなんてこんな奴らでしょう。みんなオウム真理教にはまった奴をバカにできないよ。
 あそうそう、職安の人に聞いたけど、タイムカードのコピーが無くても、それを会社に提出させて、未払い残業代を支払わせる事が出来るそうです。「やってみます?」と言われたけど、根性無しの俺には「はい」とは言えませんでした。会社なんて信用するもんじゃありません。えらい目に会ったよ。
 経営者が交代してから「ここはもしかしたら辞めるかもしれない」と考え、10年間働いて貯めたお金をはたいて、故郷の伊勢志摩に中古のオンボロ家を親戚から買いました。それまでは田舎と言っても家が無かったんですよ。親父の会社整理した時ぜーんぶ無くなってしまった。家も貯金も車も無く、お袋もお婆ちゃんの所に同居してた。でお袋の隠居所兼俺の帰省用に家を安く買った。築30年の汲み取り式トイレの家で時々雨漏りします。建物の評価額はゼロ(笑)!土地だけの値段でしたが、とても安かった。買っておいて良かったよ。今失業中だけど路頭に迷わずに済んだもん。しかし日本ってのは不動産が高すぎるね。幾ら地価が下がったといっても、一生かかっても家一軒持てるか持てないかでしょう。俺の場合はド田舎だから都会の1/3〜1/7の値段で買えたんだけど、大都市圏やその郊外ならばまず不可能。買えてもスズメの額ほどの土地だよな。日本は普通の生活するだけでも大変だ。これっておかしいよねえ。アメリカじゃ大都市圏の郊外でも、10万ドルぐらいで普通の家が持てると言うしなあ。妹の旦那が大工をしてて時々直しに来てもらってる。身内に大工が居ると便利だね。日当と材料費だけで立派にしてくれる。工務店に頼んだら3倍は取られるだろうな。
 ここに勤めて得た教訓は、「♪会社(組織)を信じちゃいけないわ!」「自分の人生(または哲学)は自分で決める」「他人(や組織)が振りかざす”愛”とか”正義”とかのスローガン等を信じちゃいけない」、ということ。個人的には「C」の経営者も対立した上司も大好きなんですよ。仕事を離れたらめちゃいい人でした。でもそんな人でも一旦組織に入り込んでしまったら、全然別個の人間になってしまう。平気で反社会的な指示や命令を出す。これが組織の持つ魔力なんでしょう。しきりに職安の人に「証言してください、労働基準監督署から査察入れましょう」「未払い賃金請求しましょう」と言われたけど、個人的には憎めないので断ってしまった。ああもったいない(笑)。
 読んでる人御免なさい、愚痴ばっかりで。世の中にはこうゆう会社もあります。世の中のお父さん、あんまり働き過ぎないようにね。心と身体の健康第一ですから。死んだり病気になったら家族が一番悲しみます。生きてればいい事が必ずあります。
 楽しい事もいっぱいありました。知らないジャンルの本を読めたことですね。例えばコミックスなんて全然読まなかったんですよ。でも入社してからその面白さを知りました。今では結構買って読んでます。しかしコミックスってすぐ溜まるなあ。置き場所に困るので何とかせねば。
 でも俺未だにアニメや美少女コミックスなんかは理解できん。常連のお客さんでそれが趣味という人がいて、「そんなん読んで面白い?」って聞いた事がある。「面白いよー、”まるた”さんも読んでみたら?」と何冊か押し付けられてしまった(笑)。で読んだけどさっぱりわかんない。「すまんやっぱり俺わからへんわ」と返してしまった。結構さばけた人で、「仕事場では同僚は、アンタの趣味知ってんの?」という俺の失礼な質問にも、「隠してるに決まってるだろうが」と笑いながら答えてくれたな。「そんな趣味辞めてしまいな、一生結婚でけへんで」なんてよくからかってました。「ええい、家ばっかり閉じこもってたらアカン!外に出ろ!」と、その人を一度強引に日帰り登山に連れて行ったことがあったなあ。場所は岐阜の高賀山という1000mの低山だけど、片道1時間のコースを3時間かかった(笑)。それ以降会うたびに「二度と行きたくない」とイヤミを言われた(笑)。人間には向き不向きがあるようです。
 それまでは「オタク」と呼ばれる人を気持ち悪いなんて思ってたけど(失礼だな)、実際は大人しくて素直な人が多かったです。人付き合いが下手糞で変な趣味してるけど、小金持ちが多くてよく買い物をしてくれた。しかし「〜限定本」「〜復刻本」なんて何万もするコミックスを、平気でバンバン買ってくのにはビックリした。おいおい同じ本が文庫本で出てるだろうがー!「いやこれには作者のサインが入ってるので」「シリアルナンバーが入ってるので」って言うんだよ。わかんねえよー!本屋さんてお客さんが(大人しいんだけど)変わった人が多かったなあ。郊外店だけど専門書やコミックにかなり力入れてたから、活字中毒者やオタクがいっぱい来てました。そうゆう人を相手に話をするのって結構楽しかったですよ。
 一番の収穫は、お客さんと友達になれて、今でも何人かとお付き合いさせて貰ってる。今でもメールのやり取りしてるし、夏には遊びに来てくれるとの事。なぜか何人かのお爺さんのお客さんによく気に入られてました。休みの日に遊びに行ったりして、いらない本を貰って来たりしてました。あまりにも年寄りにもてるので、F店のパートさんから「じじいキラー」と呼ばれてた(笑)。お年よりは気難しいけど一旦仲良くなったら親切ですね。店に蜜柑持ってきてくれたり、中には白菜や大根貰った事がある(笑)。いずれも近所の農家のお年寄りです。
 会社ではあんまり友人は出来なかったけど、お客さんがいっぱい友人になりました。これはプロの販売員として一番誇れる事です。みんな優しくてね、体を気遣ってくれるんだよ。「ああ俺販売員やってて良かったな」ってしみじみ思う。今まで11年半プロの販売員の仕事してきたけど、この仕事が性に合ってるみたいだ。次はどうなるかわからんけどね。

 とまあダラダラと書きました。まだまだ書きたいことはいっぱいあるけど、これが私の経歴です。まあいろいろありました。またおいおい付け加えていきます。日記と合わせてお読み下さい。